【前編】「スペシャリスト」になれなくてよかった。 35歳の元エンジニアが選んだキャリアパスとは?

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目次
 

エンジニアにとって35歳は特別だ。

エンジニアには35歳の岐路というものが存在する。現場を離れて管理職などのゼネラリストとして歩むのか、ずっと最先端の技術を追求するスペシャリストとして歩むのかを選択するタイミングのことだ。日々激しく変化する技術を吸収しにくくなるのではないかとスペシャリストの道を諦める人や、管理職に促されその道を進む人が増える傾向にあり、「35歳定年説」とも呼ばれている。選択する道によって、今後の仕事内容は大きく変わる。これから35歳を迎える皆さんは、どちらの道に進むか決めていますか?

 

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出典:希望や適性に合わせたキャリアステップ|コマース21

 

今日は、その選択を迫られた株式会社エスユーエスの圓城さんが、未経験でスペシャリストを目指してITエンジニアとして入社したにも関わらず、どのような理由からゼネラリストの道に進むことを決断し、35歳で部長に抜擢されるほど活躍するまでになったのかを伺ってきました。

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株式会社エスユーエス
関西第一ソリューション部 部長
圓城 博章(Enjo Hiroki)

2006年入社。IT未経験で入社後、テスト評価、開発業務を経て、26歳のときに、新規事業であるゲーム部門の立ち上げメンバーに抜擢。5年間、企画に携わった後、32歳で京都ソリューション課の営業に転身。3年後の35歳に、関西第一ソリューション課の部長に就任。

22歳、アニメに影響されて、未経験でITエンジニアになりました。

―入社までの経緯を教えてください。

実は僕、全くの文系なんです。高校の体育で上手くできたゴルフを極めるために、打ちっぱなし施設のある大学を選んで、ノリで経済学を学んでました。しかもそのとき、バンドをやっていて、プロを夢見て就活しなかったんです。何とか卒業したんですけど、その一か月後にバンドが解散しました(笑)。音楽性の違いで(笑)。

―音楽性の違いでって本当にあるんですね(笑)

はい、ノンフィクションです(笑)!急に目指すものがなくなって、とりあえず「働かなきゃ」って考えてた時に、当時見ていたアニメの宇宙船がプログラミングで動いてるって知って、プログラマーになれば世界を獲れるなんて考えて、IT企業を受け続けました。まぁでも、ITの勉強すらしたことも、社会人経験もない自分が受かるはずもなく、途方に暮れてたとき、エスユーエスから内定が出たんです。迷わず入社しましたね(笑)。

―ようやくITの世界に飛び込んだんですね。

はい。最初の2社は、決められた手順に沿ってメールを送れるか、カレンダーは開けるかなど期待通りの動作をするか操作して確認するという、携帯電話のテスト業務をしていました。エンジニアの基本だからこそ簡単なはずなのに、危うく数千万円の損害賠償になってしまうミスをしたこともあります…。そこからの注意力は半端じゃなかったですが(笑)。文系出身なので初めからプログラミングなんて無理でしたが、評価や品質保証を学べば設計にも生かせますし、プログラマーになってからもテスト経験に助けられたこともあって、下積みとしていい経験だったと思います。

―テスト業務をしてみて、プログラマーに近づけた感じはありましたか?

正直、なかったです。このまま何となく続けていればいつかはプログラマーになれるだろうって軽く考えてました。1社目の契約が終わるまでは…

23歳、本気でスペシャリストを目指す後押しをしてくれたのは…

―何があったんですか?

1社目のプロジェクトが終了するということで、参画していた全員の契約が終わったんです。次のプロジェクトとして、同じく携帯電話のテスト業務ではあるけど、開発の勉強会が開催されている現場を紹介されたんですが、僕だけこの現場に行けなくて…めちゃめちゃ悔しくて。「同じように開発者を目指しているのに、何で僕だけ…勉強も業務も頑張ってるのに」って。ちょうどそのとき、父に癌が見つかり、1ヶ月後に息を引き取りました。当時23歳の僕にはパンチあるできごとだったんですが、なぜか「生きることが大事で、働くことが大事で、人生は短くて、後悔しないようにしろよ」って言われた気がして。翌日、そのプロジェクトの営業担当に電話したんです、「何で僕だけ行けないんですか?」って。必死だったんでしょうね(笑)。その必死さが伝わったらしく、営業さんが上司の力も借りてクライアントに交渉してくれて、僕も参画することができたんです。

―動いたことが結果につながったんですね!

「悩むより、考えるより、行動」そもそも行動しないとチャンスも来ないと実感しましたね。そして、ここまでやってもらったら、もうやるしかない、という気持ちでいっぱいでした。恩返し=いち早く利益を出せるプログラマーになることだと思ったので、そこからとにかく勉強しました。480ページのプログラミングの参考書を1ヶ月でやりきる!を目標に、通勤で読み込み、帰宅後深夜1時からコーディング、翌日の勉強会で見てもらうというのを毎日繰り返しました。10名くらいで勉強を始めたんですが、残ったのは僕だけで、その頑張りを買っていただき、ようやく開発のプロジェクトに参画することができたんです。やっぱり、待っているだけじゃだめですね。そこに気づいて、行動を起こせたから、未経験でもプログラマーになることができたと思っています。

 

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「これは、こうで、こう!」

 

 ―初めてのプログラマーのお仕事はいかがでしたか?

C言語を使って、発電機のチップの中に埋め込む組込開発をやっていました。1年経つとプログラマーとしても使えるようになって、「これ回してほしいんやけど、リーダーやらへん?」という話をもらいました。エスユーエスメンバーだけじゃなくて、クライアント先のメンバーや同じように外部から来られているパートナーさんもチームにはいますし、初めてのプロジェクトリーダーということもあって、本来何が正解?ってクライアントに確認しながら、探り探り、納期と品質は担保しながら、日々勉強して何とか付いていくという感じでしたが、スペシャリストとしてレベルアップしてる実感はありましたね。

 

26歳、突然現れた”ゲーム”というおもしろそうな挑戦に迷わず飛びつきました。

―そこからどういう経緯でゲーム事業に関わることになったんですか?

2011年から「ソーシャルゲームがITの金脈や」と言われ始めた時代に、複数の会社で共同ビジネスとしてゲーム事業を立ち上げる決定がなされました。新規事業ということもあって、フリーで手を動かせる人材やゲーム会社で活躍されていた方を招き入れて、チームを作っていた中で、テスト要員として誘われました。会社のイベントに参加したり、勉強会を主催したりという、会社にどれだけコミットしてるかというところも見られてたのかもしれないですね。僕自身、ゲームおもしろそう!新しい技術に触れることでスキルを伸ばせそう!と思い、誘いに飛びつきました(笑)。

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「これからゲームつくりますよ~」

 

―ゲームのテスト作業とはどのようなものだったんですか?

テスト要員だったんですが、テストするものができ上がってなくて、企画サポートっていう形でキャラクターのセリフや必殺技の名前とか考えてました(笑)。人手不足もあってお手伝いみたいな感じで関わっていました。

―ゲーム事業での目標はあったんですか?

ゲームの開発は、当時はWEBなので、PHPとかrubyといった言語が必要だったんですね。一応アルゴリズムとかの知識はあったので、テストやりながら勉強して、いずれは開発にも携わっていきたいと思っていました。ですが、企画の手が一向に足りず、来る日も来る日もセリフを考えてました。

―ではそのまま企画者に?

そのとき、3タイトル連続リリースを目指してたんですが、全てのタイトルを同時に動かさなきゃいけなくなったんです。でも、メインの企画者が足りないってなって、僕に話が来たんです。「君がやるならタイトル一本任せるけどやる?」と。即やらせてくれと頭さげましたね、その場で、秒で(笑)。

―結果は?

ビギナーズラックもあり、そのタイトルはそこそこ売れました。けど、エスユーエスという名前を広めるほどではありませんでした。なので失敗ですね…悔しかったです。特に、企画を考えてチームメンバーに協力してもらうというリーダー的な立ち位置なのに、一番能力が不足してるということが。ゲームの開発は、画面の見た目の開発、演出の開発、中身の動きの開発、illustrator、BGMがあって、パラメーター注入をする人がいてとそれぞれにプロがいるので、指揮をするといっても、自分のスキルは誰にも勝ってないんです。それなのに、みんなが納得するものを引き出して、いいタイトルを作らなければならない。最後まで完璧にはできなかったように思います…結局、自分にはどんなスキルが残ったのか不安でした。

 

あれ、僕はこれから何ができる?

―今、エスユーエスにゲーム事業部ってないですよね?

はい、戦略的撤退です。というのも、誰もが知っているような大手ゲーム会社がスマホゲームに次々に参入してきて、選択を迫られたんです。「ゲーム会社として戦うのか?」って。中途半端じゃ勝てない世界なので。その答えがNOだったというだけです。もともとゲーム事業を始めたのも、技術者を育成していく中で、ゲームというフィールドを追加することで、より面白い、より高い技術が身につくはずだという理由で始めたものだったので。

―メンバーはどうなったんですか?

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「こっちの方が面白そうじゃない?」


ゲーム事業は規模を縮小しましたが、この実績のおかげで多くのゲーム会社さんと取引が始まりました。メンバーそれぞれが、身に着けてきたスキルを活かして、ゲームのプロジェクトや高いスキルを求められるプロジェクトに参画するなど道を決めて進んでいく姿を見送り、5年間のゲーム事業にけじめをつけました。それから自分の今後について考え始めたとき、ふと思ったんです。「あれ?僕は一体…どんなスキルを身につけられたんだろう…?ブランクがありすぎて、開発に戻れるスキルは無くなってしまってるのではないか…?僕はこれから何ができるんだ…?」って。

 

 

《 後編 (3/27up予定) につづく》

>>>「スペシャリスト」になれなくてよかった。 35歳の元エンジニアが選んだキャリアパスとは?―後半― - E-30!!!

 

(E-30!!!編集部 猪熊)

 

 

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